戦争に反対する言論、特に思想犯を政府は特別高等警察(特高)を使って弾圧した。単に戦争に反対しない、というだけではなく、積極的に戦争に協力する態度が要求された。人々は戦争が始まると「欲しがりません勝つまでは」、「ぜいたくは敵だ」等という国家総力戦の標語(スローガン)を掲げ、ピリピリとした空気のなかで生活を送った。ガソリンの不足で町には木炭自動車が走り、電気を浪費するためパーマネントも禁止となった。
物価や物品の統制がなされ、贅沢品はもちろん生活必需品も不足し、窮乏生活を余儀なくされた。食料の配給制度が実施され、敗戦の色が濃くなってくると配給量も徐々に減らされ、その質も悪化していった。 また熟練工が戦場に動員され、代わりに学生が工場に動員あるいは徴兵(学徒動員)され、兵器製造や戦場にも駆り出された。子供の遊びにまでも戦争の影響があらわれ、戦意発揚の意図のもと戦争を題材にした紙芝居、玩具などが出回り、空き地では戦争ごっこが定番になった。学校の教科書にも戦争関連の問題が載るようになった。
本土に対する空襲は1944年6月の九州北部から始まり、さらに同年11月からは東京・名古屋・大阪方面も空爆にさらされ、沿岸地域では米軍艦による艦砲射撃も加えられるなど、戦争の災禍があらゆる国民に及ぶようになった。 そして沖縄では一般国民が米軍の、南樺太や北方領土の島々ではソ連軍の直接侵攻を受けた。
総統アドルフ・ヒトラーは、戦争中盤までは国民の生活水準をある程度考慮していた。その一方で、秘密警察ゲシュタポの監視により、国民の反政府・反戦的な言動は徹底的に弾圧した。スターリングラードの戦いでドイツ軍が大敗すると、ミュンヘンの大学生による反戦運動が表面化した。その時期、宣伝大臣ゲッベルスによる有名な「総力戦布告演説」が行なわれ、政府による完全な統制経済・総力戦体制が開始され、軍需大臣アルベルト・シュペーアの尽力もあり、1944年には激しい戦略爆撃を受けながらもドイツの兵器生産はピークに達する。
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連合軍による空襲はすでに1940年から開始され、1942年にはケルン市が1,000機以上による大空襲に遭った。1943年には昼はアメリカ軍爆撃機が軍事目標を、夜はイギリス軍爆撃機がドイツ各都市を無差別爆撃した。そのためドイツ国民は、自宅のベッドに寝ている時間よりも、地下室や防空壕で過ごす時間の方が長い、とまで言われた。1944年のクリスマスの時期には、プレゼントを巡って「実用性を考えれば、棺桶が一番だ。」というブラックユーモアが流行した。総力戦体制の確立後、歌劇場、劇場、サーカス、キャバレーなど庶民の娯楽の場が次々と閉鎖に追い込まれた。そのような苦しい状況下において、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー率いるベルリン・フィルハーモニー管弦楽団やウィーン・フィルハーモニー管弦楽団といったドイツのみならず世界を代表する楽団は1945年の敗戦直前まで何とか活動を続けた。[25]ナチスが支援していたバイロイト音楽祭も、規模を縮小しながら1944年まで行われた。芸術の町ドレスデンが1945年2月、徹底的な無差別爆撃に遭った事で、ドイツの芸術にあたえた衝撃は計り知れない(ドレスデン爆撃の項目を参照)。
敗戦間際、ソ連軍の残虐な報復から逃れるために西部へ避難するドイツ人が続出した。ベルリンの戦いの頃には、少年や老人までもが義勇兵として武器を取りソ連軍と戦った。そのような状況で、ゲシュタポやナチス親衛隊はなおも国民や兵士を監視し、逃亡と見なした者を処刑して回ったという。